『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観て、コーダについて知りたくなった人必見!!

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『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を観て

原作者の五十嵐大さんの本(五十嵐大『ろうの両親から生まれた生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』幻冬舎、2021)を先日読んだばかりだったので、この映画が公開されることを知り、とても楽しみにしていた。

しかも、吉沢亮さんが五十嵐さん役、あの忍足亜希子さんがお母さん役で、お父さん役が今井彰人さんなんて絶対観るしかない!!

と意気込んで、初めての映画館に一人で参戦してきた(わが県では2か所しか上映がなかったため)。

 

結果・・・

泣いた泣いた。。

 

コーダの息子と、ろうのお母さんの心の葛藤を丁寧に描いた非常に胸をうつ作品だった。

最近色々とコーダについて調べていたので、だんだんと成長するにつれ自分の家族と他の家族との違いについて気づいていく様子や、ろうのお母さんとの心の距離がしだいに開いていく様子など、見ていてとてもせつなくなった。

 

全然趣旨とは違うけど、この映画の一番の驚きは、なんといっても忍足さんがかわいすぎるという点にある。(そこかい!とツッコミがきそうだが)

ほんとに全然関係ないけど、忍足さんってたしか50代でしょ?!

ほんとにぴちぴちの20代に見えた。

最初番宣を見た時、お父さん役の今井彰人って30代前半なのに忍足さんと夫婦役なの??

大丈夫ー???

なんて思っていた自分を笑いたい。

画面に出てきた忍足さん、超超超かわいかった‼

映画館の大画面でぜひ見てほしい‼

 

それから、やっぱり吉沢亮さんってすごい役者さんなんだなと実感した。

ほんとのコーダの人に見えた。

なんであんなに自然な手話ができるのよ

 

最後の駅で号泣するシーンなんて、まぁ一緒に号泣ですわ。

いやーすごかった。

と、まぁ映画の感想はこれくらいにして、今回はコーダについて少し書いてみたいと思う。

 

そもそも「コーダ」とは何者?

「コーダ」「コーダ」と先ほどから書いているが、そもそも「コーダ」とはどのような人たちのことをいうのか。

日本には「コーダ」と呼ばれる人はどのくらいいるのか。

などなど、「コーダ」について少し書いてみたいと思う。

 

中津真美さんの『コーダ きこえない親の通訳を担う子どもたち』(金子書房、2023)によると、

「コーダ」とは、「きこえない親をもつきこえる子ども」のことをいうそうだ。

きこえない親を一人以上もっていれば(両親ともに、または一方だけがきこえない場合も)、「コーダ」といえるとの事だ。

親がろう者であろうと、難聴者であろうと、コーダ自身が手話を使う使わないにかかわらず、「きこえない親をもつきこえる子ども」であれば「コーダ」なのだそうだ。

コーダは詳細な人数はわかっていないそうだが、日本だけでも21,000~22,000人程度は存在するのではないかと考えられている。

ちなみに、「コーダ(CODA)」という言葉は「Children Of Deaf Adults」の頭文字をとったものであり、1983年にアメリカで生まれ、日本では1994年に初めて紹介されたとの事。

なお、最近ではコーダのほかにも「ソーダ(SODA)」という言葉もあり、これは「Sibling Of Deaf Adults/Children」の略で、耳の聞こえない兄弟を持つきこえる兄弟を指す言葉である。

 

ろう文化と聴文化について

コーダは幼少期からきこえない親と手話や口話などでコミュニケーションをとっている。

親がろう者の場合、ろう文化と聴文化を行き来しながら成長していく。

家では「ろう文化」、学校や外では「聴文化」という2つの文化、2つの世界で生きることになる。

今回の五十嵐大さんもそのことから「ぼくが生きる、ふたつの世界」という題をつけられたのだと思う。

 

ろう文化」という言葉自体初めて聞いた方も多いかもしれないので、少し説明してみたいと思う。

聴覚障害を持つ人は、聞こえなくなった時期や教育環境、家族構成や手話使用の有無などにより多様なコミュニケーション方法を用いて生活している。

聴覚障害者、ろう者、難聴者、中途失聴者とさまざまな呼び名があるが、これについては次回以降書いてみたいと思うので、このことについての説明は今は省略することにする。

 

「ろう文化」とは、ろう者独自の文化であり、聴文化(聞こえる人の文化)とは異なる独自の特徴を持っている。

手話を基礎とし、視覚的なコミュニケーションを重視し、ろう者特有の生活習慣や価値観を持っている。

 

たとえば、コミュニケーションの文化の違いがあげられる。

聴文化

  • 曖昧な言い方を好む
  • 遠回しな表現をすることが多い
  • 相手が察してくれることを想定したコミュニケーション

ろう文化

  • 遠回しな表現はせず、直接的な言い回しを好む
  • 結論をはじめに言う

 

たとえば聴者は転居のはがきに「お近くにお寄りの際は、ぜひお越しください」などと文言を書くと思う。

それを見た聴者は、転居の定型文だから実際に近くに来たからと言って突然行ったりしない

でもろう者は、本当に突撃訪問をしてしまう人がいる。

だって、近くに来たから!」と。

 

また、聴者はよく「また今度遊ぼうね!」なんて何の気なしに言うと思う。

相手が聴者だった場合、「今度ねー!」で話は終わる。

でもろう者の場合、「今度っていつ?」「明日?」なんて具体的に聞かれる

なんてことは往々にしてある。

 

それほど、ろう文化聴文化は違う。

私はどちらかというと「ろう文化」は日本文化よりも外国の文化に近いと感じる。

私が中国に留学していた時、クラスメイトにロシア人も多くいたのだが、そのロシアの女の子が他のロシアの女の子に「私、あなたのこと嫌いだから今日の集まり来なくていいわよ」と面と向かって言っていて、衝撃を受けたことを覚えている。

超直接的な言い方

しかもその言われた女の子もべつに気にしてないみたいに「私もあなたのこと好きじゃないから別に問題ないわよ」なんて言っていた。

日本だったら、いくら相手のこと嫌いでも、面と向かって「あなたのこと嫌いだから」なんて言っているのなんか見たことがなかった。

 

まぁ、これは極端な例かもしれないが、日本以外の外国は多様な文化が入り混じった国が多いから、日本みたいにオブラートに包んで話したら伝わらないのかもしれない。

聴文化、ろう文化と言っているものの、もしかしたら聴文化と呼ばれる日本文化のほうが世界から見たら特殊なのかもしれないな…なんて思ったりして。

 

聴文化とろう文化のはざまで

コーダは聴文化ろう文化の間で育つため、独特な悩みを抱えている。

家でのろう文化に慣れ親しんだコーダは、学校や外での聴文化でのコミュニケーションに戸惑うことも多いそうだ。

映画でも「この会社にはどうして?」みたいなことを聞かれて、会社の志望理由ではなく、「自転車で来ました」と会社に来た交通手段を答えてしまい、焦っている様子が描かれていました。

手話と日本語は単語は同じでも含まれる意味が違っていることがよくある。

 

例えば、「すみません」という言葉。

日本語では「ごめんなさい」という謝罪の意味のほかにも、「すみません、助かります」などと感謝の意味や、誰かに何かを依頼する時にも使う。

しかし、手話の「すみません」(眉間を親指と人差し指でつまんでから、指先を伸ばして前におろすという表現)には謝罪の意味しかなく、感謝や依頼といった意味はない。

 

逆に手話の「かまわない」(立てた小指をあごにトントンと2回当てるという表現)は、「いいですよ」「大丈夫」「OK」といった意味があるが、日本語の「かまわない」は目上の人が許可や承諾を与える時に使う言葉で、あまり日常では使わない表現だと思う。

 

このように日本語と手話では同じ言葉でも違う意味で使われていることが結構ある。

10時、5分前集合」と言われれば、聴者は9時55分にはその場にいると思う。

でもろう者は10時5分の前に来ればいいと思ってしまうため、9時55分に来てほしければ、「5分前集合」などとは言わず、「9時55分集合」ときちんと正確に言わなければならない

 

などなど、聴文化とろう文化は異なる点が多々あるため、そのはざまにいるコーダはなかなか聴文化になじめず、ずれた行動をしてしまうことがあるそうだ。

 

コーダが抱える悩みとは

  • 通訳という役割を担う
  • 孤立感を感じる
  • ろう文化と聴文化の違い
  • 聴覚障害に対する社会的偏見

まだまだ多くの悩みが存在すると考えられるが、ここでは4つの悩みについてみていきたい。

 

通訳という役割を担う

親の教育方針で子どもに通訳はさせないという家族もあるが、多くのコーダは親と外の人々との間で通訳することが多く、これが精神的な負担となることがある。

最近ではコーダは「ヤングケアラーに該当する」ことがあるとの認識が広まってきている。

しかし、コーダは幼少期から親の通訳を務めることが多く、コーダ自身は親をケアしているという認識が薄く「日常」として受け入れていることも多い。

テレビドラマの『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』でも、病気の告知など子どもが担うには重すぎる通訳をしている場面が描かれていたが、医療機関や学校の面談、親の仕事の電話を代わりにかけるなど重要な場面で通訳を担うことがある。

幼いコーダにとって通訳はかなりの負担になると考えられる。

 

孤立感を感じる

コーダはろう文化で育つが、結局のところろう者ではないため、ろうコミュニティには入れない。

かといって、ろう文化で育っているため聴文化にもなじめない。

結果、どちらにも完全に属せないという感覚から、孤独を感じるコーダも多く存在する。

また、同じ境遇の人が周りに少ないため、自身の悩みを共有できる機会が限られ、よけいに孤独感を感じることがある。

 

 

ろう文化と聴文化の違い

これも先ほど書いたのだが、手話と日本語は似ているようで全く異なる別言語である。

そのため、ろう文化と聴文化の違いを理解し、両方の文化に適応する必要がある。

言語の使い分けや、文化の違いによる誤解を避けるなどの努力が必要になり、これによりコミュニケーションの難しさや周囲とのギャップを感じることが多い。

 

聴覚障害に対する社会的偏見

聴覚障害に対する偏見や誤解に直面することがある。

昔に比べてだいぶましになってきたと思っていたが、先日夫の会社の上司が手話のことをパラパラとほざいていたので、まだまだ偏見は残っているのだなと実感した。

 

コーダコミュニティについて

コーダが抱える悩みを理解し、支援することは非常に重要である。

日本のコーダコミュニティに参加することで、同じ経験を持つ人々とつながり、共通の体験を語り合うことができるため、精神的な安心感を得ることができるという。

  • J-CODA: 全国からコーダが集まり、同じ体験や悩みを共有できる場を提供している。定期的にイベントやオンライン活動を開催し、コーダ同士の交流促進をしている。(https://jcoda.jimdofree.com/)
  • WPコーダ子育て支援:聴覚障害のある親とコーダのための情報提供や交流イベントを行い、地域の理解促進や連携づくりを支援している。(https://www.wp1.co.jp/coda/)

 

さいごに

最近では、

映画『Coda コーダ あいのうた』

ドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』

今回の映画『ぼくが生きる、ふたつの世界』など、

映画やドラマでもコーダが取り上げられることが増えてきた。

しかし、正直まだまだ「コーダ」という言葉自体が社会に浸透してきている実感はない。

少しずつでもコーダという人たちがいるという事、コーダが抱えている悩み・苦しみが世の中に広まっていき、今支援が必要なコーダたちに支援の手が届くことを祈るばかりである。

 

ということで、今回は映画の感想とコーダについて少し書いてみた。

私自身、コーダに関してはまだまだわからないことも多いので、これからも引き続き勉強していきたいと思う。

とにもかくにも、『ぼくが生きる、ふたつの世界』の映画、とってもよかったのでぜひ観てください!!おすすめです!!

 

 

 

 

 

 

 

 

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